第20回 H. シュッツ 「音楽による葬儀」 その2
第2回定期演奏会のプログラムについて
前回の記事ではシュッツの成年期までを追っていきました。
今回は中年期以降のシュッツを見ていきます。
3.中年期
再びヴェネツィアへ
1618年に30年戦争が始まってから、10年以上ザクセンは参戦していませんでしたが、次第にその影響を受けるようになってしまいます。
潤沢であった宮廷の財政は圧迫されていき、シュッツが司っていたドレスデンの音楽はその影響をもろに受けていきました。いつもの世も戦争で最も早く、そして深いダメージを与えられるのは芸術です。
経済的困窮と、宮廷や教会での音楽活動の制限による精神的孤独に苛まれたシュッツは、ヨハン・ゲオルグに休暇を申し出、再びヴェネツィアへと旅立ちました。
当時ヴェネツィアでは、シュッツより18歳年上のC. モンテヴェルディがその革新的な音楽で人々を魅了していました。シュッツはシンフォニエ・サクレ第1集の序文でこの時の印象を次のように語っています。
「書法が過去のものとは驚くほど違っているのが見出された。古い教会旋法は一部捨て去られている。そのいっぽうで、人びとは新しいくすぐるような心地よさでわれわれの耳を楽しませようと努めている」
このような新しい書法はまずは世俗音楽の中で現れ、次いで有名なモンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」の中で取り入れられたように、宗教音楽の中でもその書法が用いられるようになっていきました。
ドレスデンへの帰還、デンマークへの滞在
1年間のヴェネツィア滞在の後、シュッツは戦禍のドレスデンへと帰っていきました。シュッツの帰った当初は落ち着いていたドレスデンの状況も、しばらくするとにわかに悪化の道を辿り、シュッツはまたしても活動の地を他に求めねばなりませんでした。
シュッツがヨハン・ゲオルグに申し出た次なる転地はデンマークでした。デンマークのクリスティアン4世は芸術擁護者としての業績を上げたいともくろみ、王室聖歌隊に惜しみなく資金を出していました。各地から著名な音楽家を呼び寄せ、その中にはイギリスのJ. ダウランドもいて、相当な俸給を与えていたそうです。
豪勢なデンマーク宮廷での1年半の滞在の後、シュッツはまたしても戦争に蝕まれたドレスデンに戻って来なければなりませんでした。
さて、今回の第2回定期演奏会でサリクス・カンマーコアが演奏いたします「音楽による葬儀」“Musikalische Exequien” op. 7, SWV 279-281はこの頃に作曲されました。
かねてからシュッツと親交のあったポストゥムス・ロイス公が、自分の死期が近いことを悟ってシュッツに作曲を依頼したのがこの作品でした。
ポストゥムスは自ら聖書からの引用と、コラールを選び、それを自分が入る棺に刻み込ませました。さらにそのテキストでシュッツに自分の葬送音楽を作曲するように依頼したのです。
これがその実物の写真です。(Heinrich Postums von Reussで画像検索すると沢山出てきます)
曲そのものの解説は後述することにして、彼の生涯の話題に戻ります。
その後彼はさらに2度、戦禍を逃れてデンマークへと赴きました。そしてそこでの華やかな宮廷音楽と、ドレスデンの悲惨な音楽状況とのギャップに苛まれていました。そして、老年期をドレスデンで過ごすようになるまでの間、1637年には弟のゲオルグ、翌年の1638年には長女アンナ・ユスティーナと、相次いで身内に先立たれてしまいます。長女はこの時わずか17歳でした。
信じがたいことに、1622年からこの1638年までの17年間で、シュッツは16人もの親族を失っています。
シュッツは87歳という当時としては恐ろしいほどの長寿を全うしましたが、長く生きるという事はそれだけ多く、親しい人の死に目に会うという事なのかもしれません。
4.老年期
30年戦争の終結
60歳を迎えシュッツはザクセン宮廷の楽長としての現役から退きたいと願うようになっていました。そして自分が幼少期を過ごしたヴァイセンフェルスに戻って余生を過ごしたいと考えていたようです。
しかし彼の雇い主ヨハン・ゲオルグそれを許さず、ただ秋と冬の間だけヴァイセンフェルスに滞在しても良いという許可だけを与えましたが、引退は認めませんでした。
シュッツの創作意欲も、戦争の影響、体力の低下、また依然としてドレスデンの音楽状況が好転しなかったことなどから次第に衰えていったようで、ヨハン・ゲオルグに対し、早くヴァイセンフェルスに戻り「近頃かつてなく枯れてしまっている音楽の血脈をよみがえらせ、再び活動できる場を取り戻したい」という手紙を書くほどでした。
ほどなくしてその願いは聞き入れられたようで、1年間はヴァイセンフェルスで落ち着いて創作活動に励めたようです。
そしてこのシュッツがドレスデンを離れていた期間に、長くドイツを混迷の渦におとしいれていた30年戦争がようやく終結します。1948年10月24日、シュッツ63歳の時でした。
33歳から63歳という、作曲家として、また人間として最も仕事に打ち込むべき期間をシュッツは戦争のためにふいにしたように見えます。しかし、パウル・フレミング(シュッツと同時代の詩人で有名なコラール"In allen meinen Taten"の作者でもあった)に
「シュッツよ、君の名が 死者を死から解き放つ」
とその詩の中で言わしめたほど、死と彼の創作が不可分でありました。この戦争が無ければ、これだけ生々しく死と向き合った作品は生まれなかったのかもしれません。
戦争が終わっても、ドレスデンの音楽状況はすぐには好転しませんでした。宮廷は莫大な負債を抱え、音楽家はなおも無給の生活を余儀なくされてました。
シュッツは相変わらずヨハン・ゲオルグに対し楽長からの引退、ヴァイセンフェルスへの移住を要望していましたが、この要望はついに聞き入れられることはありませんでした。彼がその任を解かれることとなったのは、シュッツとほぼ同年齢のこの主君がついに死を迎えることとなった後でした。
5.晩年期
ヴァイセンフェルスでの余生
シュッツは40年以上仕えたヨハン・ゲオルグ1世の死に際して、2曲1組の"Herr, nun lässest du deinen Diener"(シメオンのカンティクム、「音楽による葬儀」の第3部と同じテキスト)を作曲しました。
ヨハン・ゲオルグ1世の亡きあとを次いだヨハン・ゲオルグ2世は、いともあっさりとシュッツを解任し、彼好みのイタリア人作曲家を宮廷に呼び寄せました。
人生の総決算と白鳥の歌
彼は余生をそれまで彼が作曲した作品の改訂や完成、出版にあてました。その中には、30年以上前に、亡くなった妻を想って作曲したベッカー詩編集もありました。
人生の総まとめをすると同時に、シュッツは最後の最後まで新たな音楽を生み出すこともやめませんでした。最晩年のこの時期に、彼は「イエス・キリスト降誕物語SWV435」、「マタイ受難曲SWV479」、「ルカ受難曲SWWV490」、「ヨハネ受難曲SWV481」等大作を次々に生み出すのです。
彼は最後に、白鳥の歌となった11の作品SWV482-492を遺してこの世を去りました。彼の死に際歌われたのは、弟子のクリストフ・ベルンハルトによるモテットでした。そのテキストは、シュッツがポストゥムス公、ヨハン・ゲオルグ1世のために書いた作品と同じ「シメオンのカンティクム」でした。
Herr, nun lässest du deinen Diener
in Frieden fahren wie du gesagt hast
主よ、いまこそあなたの僕を去らせてください
あなたが仰った通り、平安のうちに
次回はいよいよ、今回の演奏会で演奏します「音楽による葬儀」についてお話しいたします。
(櫻井元希)
【次の記事】
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【次回公演】
Salicus Kammerchorの次回公演は『第3回定期演奏会』です。
4月22日(土)14:00開演
横浜市栄区民文化センター リリスホール
4月27日(木)19:15
開演台東区生涯活動センター ミレニアムホール
曲目
”Lobe, den Herrn alle Heiden” BWV 230
”Der Geist hilft unser Schwachheit auf” BWV 226
他
詳細はコチラ↓
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第2回定期演奏会より、Heinrich Schütz “Musikalische Exequien” op. 7 III. Canticum Simeonisを公開中です!
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