第4回 ネウマを学ぶ③~融化ネウマ~
皆さまこんにちは、渡辺研一郎です。5回で学ぶネウマ講座、今回を含めて残り2回となりました。
今回は「融化(ゆうか)ネウマ」と呼ばれるネウマをご紹介したいと思います。
◎ネウマは変化する
これまで、色々な種類のネウマをご紹介してきました。
ちょっと「ペス」を思い出してみましょう。ペスは上行2音から成る旋律の動きを表すのでした。
実は、ネウマの図形は変化を伴うことがあります。上の表に示したペスの図形、そしてこれまでの記事の中でご紹介してきたネウマの図形を「基本形」とするならば、ネウマはその「基本形」から図形を変化させることがあるのです。
ネウマが変化するのはどんな時かと言うと、例えば「旋律をゆっくり歌うことを示すとき」や「言葉(歌詞)の発音をはっきり行うことを促すとき」などが挙げられます。
今回お話する「融化ネウマ」も、基本形のネウマが変化することによって生じたネウマです。融化ネウマは特に、「言葉 (歌詞)の発音をはっきり行うことを促すとき」に用いられます。(「旋律をゆっくり歌うことを示すとき」のネウマの変化については、最終回でお話する予定です)
◎「融化」とは?
「融化」(ゆうか)は、言葉の発音に関する用語です。古ネウマに関するとある本では、融化が次のように説明されています。
「歌詞をはっきり発音しようとするときに起る、音節の変りぎわでの複雑な声の現象」
(ウージェーヌ・カルディーヌ著/水嶋良雄訳、『グレゴリオ聖歌セミオロジー――古楽譜記号解読解釈』、218頁)
少々分かりづらいと思いますので、歌詞の例をもとにご説明しましょう。
ラテン語の “suam” (スーアム。「自分の、彼の」の意味)という単語と、同じくラテン語の “ejus” (エーユス。「彼の」の意味)という単語の発音を例としましょう。いずれもグレゴリオ聖歌の歌詞の中に見られる単語です。それぞれ発音していただくと、いずれも2音節から成る言葉ということがまずお分かりになると思います。(“su”と“am”、“e”と“jus”)
さて、“suam” の場合、“su” の音節から “am” の音節に移行するとき、言い換えると、“u” (ウ) の母音から “a” (ア)の母音に移るときには、特に何の支障もなくスムーズに移行できると思います。
一方、“ejus” の場合。“e” の音節から “jus” の音節に移行するとき、つまり “e” (エ)の母音から “u” (ウ)の母音に移るときには、“j” という音が挟まります。これは私たちが日本語の「ヤ・ユ・ヨ」[ja, ju, jo] を発音するときに使っている音で、「半母音」と呼ばれています。“ejus” を発音するときには、“e” から “u” の音節の変わりぎわで “j” を発音することになります。いわば、“j” を橋渡しのようにして、音節を移行するわけです。
先に引用したカルディーヌ(Eugéne Cardine, 1905-1988。ネウマ研究に重要な功績を残した人物)による「融化」の説明は、「歌詞をはっきり発音しようとするときに起る、音節の変りぎわでの複雑な声の現象」でした。では、“ejus” という単語をはっきりと発音してみましょう。特に、音節が変わるときに “j” の発音をはっきりさせながら読んでみましょう。
すると、どうでしょう。「エーユス」というよりも「エーィユス」のようにならないでしょうか。「ィ」で書いた部分が、“j” の発音の部分になります。
「融化」-歌詞をはっきり発音しようとするときに起る、音節の変りぎわでの複雑な声の現象-とはつまり、「“ejus” という言葉の発音をはっきりと行おうとする結果、音節の変わりぎわで “j” の発音が明瞭に行われる」ということなのです。
◎言葉の「融化」を示すネウマ -「融化ネウマ」
この「融化」という言葉の発音上の特徴をネウマに反映しているのが、「融化ネウマ」です。先ほどの “ejus” の例で言いますと、音節の変わりぎわで “j” の発音をはっきり行うということを、融化ネウマは示すのです。
では、譜例を見てみましょう。
“suam” と “ejus” の言葉が歌詞に使われています。
旋律は「ラ-ソ-ソラ-ソ」あるいは「ラ-ソ-ソ-ソラ-ソ」という同じような動きです。使われているネウマも、相対的に高い一音を示す「ヴィルガ」や、相対的に低い一音を示す「トラクトゥルス」が共通しています。(ヴィルガやトラクトゥルスは、第2回の記事で登場しました。)
しかし一か所、使われているネウマが異なるところあります。“suam” の “su” と “ejus” の “e” です。
“su” の方にはペスが使われている一方、 “e” の方はペスとは違うネウマが書かれています。ペスに似ていますが、ペスの上の方が「くるん」としておまけが付いたような形をしていますね。
旋律は「ソ-ラ」という動きで両者一致しています。「ソ-ラ」という上行2音を表すなら、どちらもペスで良いのではと思われます。同じ旋律なのに、ネウマの種類は異なっている…なぜでしょう。(なお、四角符の記譜が両者で微妙に異なっているのは、ネウマの違いを反映しているためです。)
◎通常のペス⇔融化のペス
実は、“ejus” の方に使われているネウマは、歌詞の「融化」を示すペスなのです。つまり、“ejus” の “j” の発音をはっきり行う、ということを通常のペスではないネウマが反映しているのです。
「ソラ-ソ」という旋律に乗せて、“suam” と “ejus” を歌ってみましょう。
“suam” は恐らく、「ソラ」に “su”、次の「ソ」に “am” が対応するでしょう。
“ejus” の方は、先ほどの「エーィユス」という感じで “j” を強調して歌ってみましょう。そうすると、「ラ」の音の最後の辺りで「ィ」の発音、すなわち “j” の発音がなされるのではないでしょうか。
融化のペスの右上の「くるん」とした部分。通常のペスには無いおまけの部分。この「おまけ」こそが “j” の発音のはっきり行うことを反映していると考えられます。旋律が「ソ-ラ」と上行した後、「ラ」の音の終わりに “j” の発音を行うことを融化のペスは示唆しているのです。
言葉の融化は “ejus” に限るものではなく、他の単語においても可能性があります。また、融化ネウマもペスのみのものではなく、他のネウマにも存在します。今回は一例として、 “ejus” という音節の間に「半母音 “j”」を伴う単語、そして「融化のペス」をご紹介いたしました。
融化ネウマを初めて知ったとき、「ネウマは歌詞の発音にまで気を配っているのか…!」と驚きました。同時に、グレゴリオ聖歌における歌詞(言葉)の重要性を感じる瞬間でもありました。これはグレゴリオ聖歌に限らず、広く「歌」と向き合う時の参考の一つになる存在でもあるかもしれません。
それでは今回もお読みいただき、ありがとうございました!
(渡辺研一郎)
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